東京カテドラル聖マリア大聖堂へ行く マリア様と祈り ごく個人的スピリチュアルな旅の話。

 思うところがあり先日、東京カテドラル聖マリア大聖堂に行きました。
 今回は私の個人的なお話で、いわゆるパワースポット的なスピリチュアルの話ではありませんのでご興味ない方はスルーしてくださいね。
 カテドラルは日本語で司教座聖堂。カトリック教会には教区という地域的区分があり、それぞれの責任者である司教(大司教)が儀式の際着座する赤い椅子をギリシャ語でカテドラというそうです。このカテドラ(司教座)がある教会がカテドラル(司教座聖堂)です。

 ここ数年間は神社を中心にめぐっていたので、急にカテドラルとはどうしたのかと自分でも思いました。信者ではありませんがキリスト教は割と身近なものでした。
 家から一番近いという理由で私が入園した幼稚園はミッション系でした。
 マリア様も大事にされていた覚えがあり、今の今までカトリック系だったと思っていましたが今回改めて調べてみたところ、どうやら中道と呼ばれる系統だったようです。幼稚園では食事の前や帰りの前にお祈りをしていました。クリスマス近くになるとろうそくが灯され、薄暗い中イエス様の誕生の様子を先生がお話ししてくれたことを覚えています。
 今は廃校となっていますが、看護師になるため入学した学校はカトリック系でした。選んだというか第一志望に落ちてしまったので、ここ以外の選択肢はありませんでした。カテドラルは学生の頃に行ったり、その後は大切な友人の結婚式が挙げられた思い出のある場所です。

 そもそもなぜカテドラルを訪れようと思ったのかですが、なんとなく、というのから始まります。
 興味のある絵の特別展が永青文庫というところで開催されていました。地図を見るとすぐ近くにカテドラルがあります。この時点では絵を見るついでにカテドラル行ってみようかなー、くらいだったのです。

 同じ頃、思いがけない人の口からから廃校になってしまった母校の名前を聞くことになります。懐かしいと思う一方で学生時代は良い思い出ばかりではなく、なんだかもやもやしてきます。だったらもやもやの正体を見るために母校の跡地と向かいの病院の敷地内のお御堂、ついでにカテドラルに行ってみたらどうかと思いました。

そうだ、行ってみよう。

 そう考えて、病院のサイトを見ているうちになんだかお腹いっぱいになってしまい、もう行かなくていいかな、となりつつありました。
 そんな一連の話を友人に聞いてもらっているうちに、幼稚園の時ことを思い出します。
 私はろうそくの灯が好きで月の見える夜に部屋を真っ暗にして窓際でろうそく1本を灯し、その前でひとりでお祈りをしていました。今考えると小さな子どもがろうそくを灯すなんて危ないことですね。何をお祈りしていたのか、はっきり思い出せません。とても純粋だったのでその日幼稚園でみんなでお祈りしたことをもう一度ひとりでお祈りしたりしていたのかもしれません。
 話を聞いて友人は「ゆうきの祈りは1対1」という言葉をくれました。その言葉で更に思い出したのが幼稚園の壁に掛かっていた絵でした。白い服の子どもがひざまづいて左上方に描かれた光に手を合わせて祈っている絵。手は組んでいるのではなく、手の平を合わせていました。
 私の祈りの原点はひとりでろうそくを見つめ、見たこともない会ったこともない人のことを祈っていたそのころにありました。祈りの原点を思い出すための一連の出来事なのかもしれないと、その時は思いました。マリア様が身近にあられた日々を懐かしく思う気持ちがむくむくと大きくなりました。
 当初のもやもやの正体はさておき、祈りの原点を思い出すことができたことですし、きっとこれで目的は果たせたはず。カテドラルや母校に行く必要はないと思いました。

 その後、遠方の友人と久方ぶりに電話をしていて、最近はカトリックとかマリア様が気になっているよ、と話しました。すると友人は、ちょうどお知り合いの方が何かに導かれるように近く九州の教会に行く予定になったという話をしてくれました。その教会の名前がはっきり分からないと言うのですが、九州の古い教会であれば歴史的背景からカトリック教会であろうことは容易に想像できます。

「九州の教会ならカトリックの教会だろうね。カトリックならマリア様にお祈りするかもね。プロテスタントではマリア様には祈らないから。」
「そうなんだ。知らなかった。」

 この友人とは過去世、教会で出会っているのですが私はその頃の記憶がぼやけています。おそらく過去世でもマリア様に祈っていたように思われました。そしてマリア様という存在について友人と話しました。
 電話を切って、ぼんやり考えていた時、ふと気が付きました。

そう言えば、私の母校の学校名・・・。
マリア様が入っているわ。

 あまりにもなじみ過ぎていた学校名。その時改めて気が付いたのです。

え、やっぱり行った方がいいのかな。だったらカテドラルにも行こうかな。
カテドラル、このご時世入れるのかしら?

 カテドラルと検索し、目に飛び込んできた正式名称に驚いてしまいました。
 学生の間では誰もが「カテドラル」と呼んでいたので、私もずーっと「カテドラル」と略していたので気が付きませんでした。正式名称を思い出したというか、ほとんど意識していなかったので初めて知ったような気分でした。
 正式名称は「東京カテドラル聖マリア大聖堂」
 ここにもマリア様。ぞわっとしました。

わー、なんか気持ちわるい。
なんなんだ、これ、どうしよう。
一旦落ち着こう。

 お茶でも飲もうと、ふらふらとリビングに入り、TVをつけたら世界ふれあい街歩きという旅番組。聞こえてきたナレーションは、
『ここを進むと、、、これが大聖堂』
 もちろん、どこか異国の大聖堂のことですが、

このタイミングで大聖堂って言う?
こわい、こわすぎる。
え、これは母校とカテドラルに行かなければ?
母校?カテドラル? よく分からないけれどマリア様のところへ。

 もうこれは明日にでも行かなければ!と意気込む一方で先ほどの通り廃校となった母校に関しては複雑な思いがあり、ひとりでは行けない、行きたくない気持ちがあるのは分かっていました。その日のうちに電話の友人とは別の、最初に話をきいてもらった友人にお願いして一緒に行ってもらう段取りをつけました。どうして行くとか詳しい理由を話したわけではないのですが、(詳しく説明したくても自分がよく分かっていないので説明できない。)なにも言わずにOKしてくれたこと、本当に感謝しています。
 さあ、約束してしまった以上逃げられません。行きたい気持ち80%、残りは母校や学生時代へのもやもやを抱え本当に行けるのか怖くなる気持ちです。

 思い返してみると、結構前からヒントを出されていたのかもしれません。昨年の12月初めに出雲へ行ったその帰りのこと。羽田からのリムジンバスはずーっと地下の道路(首都高?)を走っていました。友人が「今どの辺かな?」とGoogleMAPを開き、たまたま画面にうつった場所は母校の近くでした。病院は残っていたのですぐに気が付いて、「あ、ここ私の母校があったんだよ。」と話した覚えがあります。

 予定の日まで少し時間がありました。その間のことです。
 家族がTVで競馬を見ていました。私は競争馬ってきれいですごいと思っているので、競馬は嫌いではありません。たまたまスポーツ新聞があったので出走馬を確認してみると「カテドラル」という馬を見つけ、ひとり叫びそうになりました。

今回、行くのは母校よりカテドラルがメインということ?またはカテドラルに必ず行きなさいっていうダメだし?

 カテドラルは18頭中18位で終わりました。ちなみに安田記念です。重賞レースですが、そこまで熱心なファンではない私は家族がTVを見ていなかったら、出走馬を確認することはなかったと思います。もちろんスポーツ新聞も自分では買いません。

 そういえば競走馬の名前にもなるような「カテドラル」とはどういう意味なのでしょう。
 実はここで初めてカテドラルの意味を知ったのです。
 意味の説明は冒頭に書いた通りで、カテドラル(司教座聖堂)はカテドラ(司教座)のある教会ということが分かりました。日本には16の教区があるということですので、16の司教座聖堂があります。1つ1つ教区と司教座聖堂の名称を確認してみるとマリア様の名前が眼に入ってきます。16の司教座聖堂の中でマリア様の名前が入っているのは、東京カテドラル聖マリア大聖堂と大阪カテドラル聖マリア大聖堂です。大阪カテドラル聖マリア大聖堂は大阪市中央区玉造にある玉造教会の大聖堂と説明されていました。

玉造? この地名知ってる。

 この数日前、TVを見ていて大阪にも玉造というところがあるのか、へぇ~、となったこと、名前の由来は古墳時代に勾玉を製作する玉造部があったことと聞いて、ほぉ~、となったことを思い出しました。大阪にも、というのはもちろん出雲の玉造温泉を思い出してのことです。
 先ほども触れたとおり昨年12月に出雲に行きました。帰宅後、家族から
「玉造温泉に行った?」
と突然聞かれます。玉造には行っていない旨を答えると、
「ダメだよ~、島根に行ったら玉造温泉に行かなきゃ。」
と言われたのです。理由を聞いてみると家人は島根県には行ったことはなく、玉造温泉は有名だから何の気なしに言ってみただけだったようです。
でも、私はなんとなくその言葉が引っかかりました。玉造温泉に行かなければならないのでは、もう一度出雲に行くべきなのかもしれないと。
 出雲の旅から帰りのバスで母校の名前=マリア様、更に玉造。そう言えば、すっかり忘れていましたが昨年行田で勾玉のエネルギーを回収したことを思い出し…。
 だいぶ話が飛んでしまいましたが、これから先の旅に関係してきそうな気がします。

 いよいよ母校跡地とカテドラル訪問の日です。
 重い気持ちを感じつつ、まずは母校跡地へ。
 行ってみて分かったのですが、母校跡地を訪れることは純粋に私個人として必要なことでした。もうあの時の苦しかったことを認めてもいい。良いことばかりじゃなかったよね。危なっかしいながらすごく頑張っていた。ずっと置いてけぼりになっていた私の一部を迎えに行った感じです。ひとりでは行けなかったので、ただその場に一緒にいて、繋ぎ止めてくれた友人に感謝。
 さてさて、そうなるとお仕事的本命は東京カテドラル聖マリア大聖堂なのでしょう。バスに乗り、椿山荘前で降りました。
 カテドラル、外観は記憶の中とほとんど変わっていませんでした。私のほうは、以前訪問したときとは変わりました。年も取りましたし、その時は見えない聞こえないと思っていたものを感じるようになりました。神社と違うな、と思ったのは、神社はその土地と一体になっていて、土地あっての社殿という感じ。それに対してこちらの聖堂は土地の縁はないように感じがしました。
 大聖堂に入ると建物を見学していると思われる数人の方、静かにひとりでお祈りしていると思われる方がいらっしゃいました。
 私も祈ろうと、椅子に掛け、目を閉じました。そのとたん、ぐわんぐわん揺れる感覚が襲ってきました。

えええ、めまい? 具合悪くなりそう。

 揺れてしまう感覚が強いので目を開けると、祭壇の方に大きな光の柱が2柱見えました。そして、
『マリアの真の姿を知る』
と伝わってきました。
 他にもメッセージがあるのではないかと、再度目を閉じて粘ってみましたがそれ以上は伝わってきませんでした。諦めて、聖堂を出ることにしました。出る前に少しだけ献金を納めました。そうそうカテドラルは入場料などはかからないので、気持ちだけ。献金すると聖書の言葉が書かれた紙を頂くことも出来ます。私も小さな巻物のような紙を1つ頂きました。広げてみると、
「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9-13)
とありました。
 敷地内にもう一か所行きたい場所がありました。ルルドの泉を模したお祈りの場です。その場所は初めて来たときからなんとなく好きでした。そこには白い聖母像が立っています。聖堂ではお祈りするどころではなかったので、こちらでお祈りしようとしました。

マリア様の真の姿って、年恰好とかそういう姿の話ではないんだろうけど、でもこのお姿とも違うってことなのかなぁ。
この姿のマリア様はやっぱり馴染み深いなぁ。

 そんなことを考え、白い聖母像を見つめつつ、手を合わせていると、聖母像の左側にガーーーーーっとバーコードのような映像が流れ始めました。ちょうどツタの緑を背景にすごい速さで流れます。一部に文字らしきものが見えますが、早すぎるのと見たことがない、知らない文字で読んで理解するということができませんでした。本体は右から左に流れ、文字のような部分は左から右へ流れて消えていきます。ひとしきり流れるとバーコードは見えなくなりました。未だわかりません。何だったのか。

 買いたいものがあったので売店に行きます。
 電話で話した遠方の友人におメダイを1つ。自分のものは買わないつもりでしたが店内を見ているとマリア様の像に惹かれました。
 大聖堂で伝えられた「マリアの真の姿を知る」という言葉からすると、いわゆるマリア様の姿はある一面でしかないのかもしれません。
でも、マリア様をかたどったものが手元にあったらいいのになぁ、とぼんやり思っていたのです。
 だだマリア様の像は自分の手元に置くには少し大きすぎる気がして手が出ませんでした。一緒に行った友人も何か見ているようなので、隣に行ってみると、とても小さいレース編みの袋がありました。

「何だろこれ?」
「マリア様が入ってるんじゃない?」
「これに?かわいい!待って、私、買おうとしてる。」

 姫マリアと書いてあります。レース編みとか、とても小さいとか私がかわいいと思う要素が満載です。かわいさにノックアウトされ、この小さなマリア様を購入しました。レース編みの袋の色をどれにするか散々迷って決めました。今測ってみたらレース編みの袋が3㎝位、中のマリア様は銀色で2.3㎝位の高さです。
 お支払いをすると、良かったらどうぞ、とここでも聖書の言葉が書かれた小さな巻物を頂けました。
「私は道であり。真理であり、いのちである。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」(ヨハネ14-6)
 姫マリアはお守りのように携帯する為のものなのかもしれませんが、レース編みの袋から取り出して飾っています。
 そして時々この小さなマリア様に手を合わせて祈ってみます。子どもの頃の心を思い出しながら祈っています。

 旅(場所的には近いですが旅と言います。)を通して思うのは、目に見えない世界の何らかの仕事をしていると同時に私自身が個人的に何か受け取っているということです。今までもずっとそうでした。
 私はどちらかというと後ろは振り返らず、前をみているタイプだと思います。今回、この旅を通して後ろを振り返ること、大事なものを思い出す機会をもらったように感じました。

 これにて東京カテドラル聖マリア大聖堂へ行ったお話は終わりますが、旅の続きはまだまだありそうな気がしています。

 旅の話はどうにも説明できないことが多く、今回も見たもの、感じたことの全容や意味は今の私には正直分かりません。今回に限らず、これはこう、と言い切れない、結論がない話になってしまいがちで文章化するのはどうなんだろうと思っていました。
 それでも、私のつたなく、落としどころの無い文章を読んで下さって、「もっと書いて!大丈夫だから!」と言って下さる皆さま。
とても励まされています。感謝。
 その言葉を素直に受け取って、分からないことはわからないまま、ごく個人的な経験も書いてみました。
もし、楽しんでいただけたら、そしてここから何か拾って頂けることがありましたらこんなに嬉しいことはありません。
 ここまで読んでくださってありがとうございます!

Mirrorのソウルリーディング®セッションについては下記をご覧くださいませ。

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