井戸の神様 それぞれの世界について思うこと 水をめぐる旅

今回はいわゆる「旅」の話ではありません。水に関連する小さなことです。
そして、人がつくるその人それぞれの世界について思うことを書いてみます。

最初に「井戸神様」のことです。
私が住む地域では近年、一軒家をまとめて取り壊し、大きなマンションを建てる事例がたくさん見られます。マンションの一室に住む方がこんなことを言っていました。
「近所の人が『あのマンション建てるのに井戸を3つも潰したんだよぉ。』とか言うの。井戸を潰すのは外国人労働者にやらせるらしい。日本人は嫌がってやらないんだって。」
井戸の数の真相はさておき、井戸に何かがあると感じている人は案外まだいるのかなぁ、と思った瞬間でした。
この話で子供の頃のことを思い出しました。

私の家には今でも井戸があります。飲料水としては使っていませんが毎日の植木の水やり等に使っています。井戸水は一時期使っていなかったのですが、私が小学校に上がる前に電動ポンプで汲み上げられるよう工事をして再び使うようになったのです。手動の手押しポンプは結構大変なんでしょうね。今は蛇口をひねるだけで井戸水が出てきます。
この工事をした直後、私は熱を出して寝込んでしまいました。工事をしてくれたおじさんが大変に慌てた様子で菓子折りを持って謝りに来ました。
枕元でおじさんと祖母がしていた会話を今でもはっきり覚えています。

おじさん 「悪かった。熱出たって聞いて、俺、お祓いをしなかったんだよ。かみさんに『あんたやり方知ってたなら何でしなかったんだ』って怒られちゃって。」
祖母   「私も井戸神様かと思って聞いてきて、そうじゃないってよ。」
おじさん 「でも悪かった。申し訳ないことしてしまって。井戸神様、怒らせたかと思って、、、」

井戸をいじるのにするべきお祓いをしないで工事をしてしまったので罰が当たって私が熱を出したのではないか、と工事をしたおじさんは慌てていたのです。息を切らせてやってきて、祖母にひたすら謝っていたことを覚えています。お祓いと言っていたのは想像するに神主を呼ぶとか大袈裟なものではなく、塩やお酒をあげてお祈りする程度の事なのかもしれません。
祖母は近所にあった「おがみしゃさん」と呼ばれるところで発熱が井戸神様のせいなのか聞いてきてくれていました。おがみしゃさんの正式名称は今となってははっきり分かりません。「拝み者さん」なのかもしれません。約40年前、私の周りではこういう会話が成り立っていました。

「井戸 埋める」でネット検索するとお祓いのことに行きあたります。
先述のような環境で育ったこともあり、私自身はスピリチュアル云々以前に井戸神様は身近な神様でした。
今でも家やマンションを建てる時に地鎮祭をしますよね。神様を信じているとかに関わらず。だったら井戸を埋める時もそれなりのお祓いくらいしてもいいじゃないか、けちー!と思ってします。
若干怒りが入るのはつい先日、井戸の神様に助けを求められ対処する事態になったからです。
断っておきますと、私は神職でも僧侶でもありませんから正式な儀式はできません。
くわしくは書きませんが私でも対処できる範囲だから助けを求められたようです。
今回はあくまで井戸の神様の為に行ったことです。

途上国支援で井戸を掘ったりしている、そこにも神様がいるのかと問われるとそこはよく分からないです。神様という存在は多くの人に浸透しているからこそ、目に見えずとも存在している言われるのです。日本という土地では井戸に神様がいるという既成概念があります。海外で日本の井戸の神様のような既成概念があるのかが分からないのです。様々なものに神様が宿っているという日本独特の信心や水を大切におもう心から生まれた信仰だというのは容易に想像がつきます。
井戸に対して何も感想がないとしたら便利な世の中で井戸の役割や水の貴重さを忘れているか、知らないかという場合がほとんどなのでは。
では井戸の神様の存在を覚えている人が誰ひとりいなくなったら? つまり井戸神様の既成概念がない世界です。万が一、そういう世の中になったとしたらその世、その世界では井戸の神様は存在しないと思います。もともといらした井戸神様は別の世、別の次元で存在するのでしょう。
私としては、昔からこうなんだからその文化や伝統みたいなものを守るべきだと言うつもりはありません。
もし「過去」から何かを問われているとしたら、昔の話や井戸の神様の話を聞いてどう思うか、どう感じるかと問われているのではないでしょうか。

さて井戸の神様の一件の後、近所の神社をお参りしていた時のこと。
こちらの御神水は蛇口をひねれば簡単に汲めるようになっています。
年配の女性が仲間数人と水を汲もうとしていました。リュックサックを背負っているところを見ると遠方からいらした方とお見受けしました。
その会話が聞こえてきました。

「御神水だって。汲んでいこう。」
「神の水だからね。」

神の水?
?マークが浮かぶと同時に自分のソウルの声が聞こえました。

「神の水ではなくて、水が神様。」

あぁ、そうね。私はそっちの方がしっくりくるな。水のありがたさという意味でね。

そもそも日本の神様は私にとってどういう存在なのかと言えば、
宇宙からみると元は私と同じ
なので、同調できるエネルギー
全ての源とは言えない
完全でないからこそ親しみがある

人にはそれぞれの世界があってそこで生きています。
神の水と感じる人もいれば、水が神と感じる人もいる。
○○神社では何色の龍がいるとか、いや○○神社に龍はいないとか、
同じものを見ても、同じ状況に対しても、そこに見えるもの、感じるものはそれぞれでどれが正しいとも間違っているとも言えないです。
ただ自分の目にうつる、感じる世界が展開されているだけでそれが他の人と重なることもあればそうでないこともある。
他の人の世界に対して色々感想はあってもその世界は無いとは言えないし、自分と違うからという理由で私の世界を否定されるいわれもないということ。
重なった部分があるならそれを喜びつつ、重ならない世界についてはそれぞれの感覚に時には興味をもって近づき、時にはサッと距離をおき、お互い傷つくことなく過ごしたいです。

神社でご祈祷をして頂きました。
私にはできない方法で祈って頂けたことがありがたく、うれしかったです。ここにもある意味違う世界が展開されていました。

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