前玉神社 水をめぐる旅

7月に埼玉県の行田に行ってきました。当初の目的は古代蓮の里で蓮の花をみること、前玉神社へのお参りでした。
毎度のようにすんなり腰をあげられたわけではなく、これを書いていて自分の出不精さに改めて「またかよ!」と突っ込みを入れている次第でございます。

行田については、行田は遠いんだよな、社会科見学で鉄剣見たおぼえがあるな、のぼうの城おもしろかったな、陸王は読めなかったな、、、という埼玉県民にあるまじきなんとも貧弱な知識、知識とも言えない?感想?しか持ち合わせていませんでした。

前玉神社と書き、さきたま神社と読みます。幸魂神社とも言われ、埼玉県名の発祥となった神社と言われています。
お参りに行こうと思ったのは、猫の御朱印が有名だそうでその情報を目にしたことから始まりました。猫は好きですが御朱印は集めておりませんのでそこには惹かれず。ですが埼玉県名発祥というのは興味がありました。
そういえば灯台下暗し、埼玉県の県章は勾玉を16個に配置したデザインで、勾玉は幸魂(さきみたま)の象徴なのだそうです。
行田の古代蓮は以前から見てみたかったので行けたら行こうと軽い気持ちでした。
時は梅雨。雨の中出かけるのが気が引け、なかなか腰が上がらないまま時間が過ぎました。
その頃、どういう訳かテレビをつけると某公共放送で行田の古代蓮が映っているということが続きました。
でもよく考えてみたら蓮の花の季節だからテレビに映るのは当たり前なのかもしれない、季節柄なんだよ、きっと。蓮以外のことで行田が出てきたら呼ばれていると考えてみようと思いました。
次の日、SNSで色とりどりの花手水の写真を目にします。単純に素敵!思ったのと同時に説明を読んで少し青ざめました。
花手水の写真は行田で撮られたものでした。行田で花手水weekなるイベントが開催されているとのこと。
うーん。
結果的に花手水のイベントには間に合わなかったのですが、梅雨が明けたある朝、蓮が見たい!今日しかない!と思い立ち行田に向かったのでした。

まずは古代蓮の里へ。行田の古代蓮は行田蓮と言われ行田市指定天然記念物となっています。
公共工事の際におよそ1400~3000年前の蓮の実が偶然出土し自然発芽したそうです。
なんとも気の遠くなるような長い時間眠っていた蓮の実です。底知れない植物の生命力に畏敬の念さえ抱きます。
当時の人と同じ蓮をみていると思うととても不思議な気持ちになります。まっすぐ伸びる花柄、青空にピンクの花、清々しさを感じました。

さてさて古代蓮の里を後にしてバスで前玉神社へ向かいます。
最初の鳥居のところで感じたのは、お寺感。ってなんだよって言われそうですが、私が思う神社という感じではなかったのです。


前玉神社のサイトをよくよく見てみると神社自体が浅間塚と呼ばれる古墳の上に建てられていることが分かります。そのせいでこの感覚だったのか、なんとなく落ち着かない感じで歩を進めました。
途中、社務所で道を尋ねている人がいました。「そこの道から博物館の方に行けますか?」
どうやら神社から博物館に抜けられる道があるらしく、その人は林の中の道へ進んで行きました。
バスは1時間に1本、博物館で時間調整するのもありかもしれないと考えつつ、古墳を登って行きます。
登ってもお寺感。先日お参りした走水神社、その本殿より奥の場所と似たような感覚です。気持ちが落ち着かないので途中の小さなお社は飛ばして本殿を目指します。
最後に急な階段を上ると本殿です。ここに着くとお寺感が減りました。
ですが、どなたがいらっしゃるのかが私には分かりませんでした。
いらっしゃらないのではなくて、お話ができず、どなたなのかが分かりませんでした。
ここは風が吹いていてとても涼しく、あんなに暑かった下の道が嘘のよう。風で揺れるのは左の提灯だけ。拒否されているのではないというのは伝わってくるし、もう少しここで涼んでいたいと思わせる、でもそれだけでした。
古墳を降りつつ、途中の浅間神社でご挨拶します。御祭神はコノハナサクヤヒメ様、会話はしませんが確かにコノハナサクヤヒメ様がおまつりされている印象。
上から池が見えたのでそちらにも行ってみました。龍泉池とありました。池の中央に小さなお社がありましたが渡ることはできません。お社の周りは草がぼうぼうと茂っていて、なんとなく悲しい気持ちになってしまいました。
前玉神社全体が今の私にとってはこの場とこの時にチャンネルが合わないような気がして会話をするは諦めました。

これを書いていて呼んでいたのは神社ではなく、むこうのほうだったのでは、と思い返している最中です。
むこうというのは、神社の後に行った埼玉県立さきたま史跡の博物館にありました。

駅までのバスの時間との兼ね合いを考え博物館に寄ることにしました。先ほど見かけた人が進んでいった林の中の道を進んでみます。
このあたりは埼玉(さきたま)古墳群と言って、博物館のサイトには
『5世紀後半から7世紀中頃にかけて、大宮台地の北端に連続して築かれた、
前方後円墳8基、大型円墳2基、方墳1基並びに小円墳群で構成される古墳群です。
台地上の狭い範囲に大型古墳が密集する、全国でも屈指の規模の古墳群です。』
と、説明されています。前玉神社はその古墳群の中の1つの古墳上にある神社でした。神社の脇の道を進んでいくと新たに古墳が見えてきます。古墳を通り過ぎ、進んでいくと博物館の入り口に着きました。
古墳から発掘されたもので有名なのが冒頭に書いた鉄剣、稲荷山古墳から発掘された国宝金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)です。博物館にはこの鉄剣をはじめとする古墳の出土品が収蔵されています。条件はありますが展示物の写真撮影が可能となっていたのがありがたかったです。
まずは鉄剣、私は小学生以来の対面です。両面に115文字の漢字が金象嵌で刻まれています。
内容はこの剣を作らせたヲワケの臣が獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)に仕えた記念にこの文を刻んだというものです。


鉄剣を見ながら雄略天皇のことを考えてしまいました。荒々しい人と認識していましたがはたしてどうなのかしら、と。
その荒々しさはヤマトタケルノミコトになんとなく通ずるような…。
博物館にはその他にも国宝が展示されています。その中の1つが同じく稲荷山古墳、遺体の胸の位置から出土された翡翠の勾玉です。


この勾玉からしばらく目が離せませんでした。
私の過去世においてこの勾玉と直接の関係は無かったように思うのです。
きれいな石が好きなのでただ見ていたいだけなのかも、とその時は考えました。
今頃になってなんとなく分かってきたのは行田に行った理由の1つがこの勾玉に込められているエネルギーの回収ということです。
呼んでいたのは勾玉か、勾玉にに関係する存在だったかのかもしれません。
そもそも前玉神社が幸魂神社とも言われること、勾玉が幸魂の象徴だということを事前に調べてたというのも私にしてはめずらしいことで、不思議と言えば不思議です。
今回勾玉から回収したエネルギーは別の目的地に運び渡すものなのではと推測しています。
どういった理由で運ぶのか、今は私が知るところではないというのが私の考えです。
全部に意味を求めない。今は分からなくても時がきたら分かる意味もある。
これは旅を繰り返すうちに思うようになりました。信念ともいえます。旅だけではなく日常の事でも思います。
意味を求めても答えが出ないことってあります。意味を説明されたとしても納得できないことも。
そこにこだわり続けて納得できる答えを探し続ける。それもありだと思います。
それでも答えが見つからなくて苦しい時は一旦離れてみるという違う方法をとるのはどうでしょうか。外からの目で見たら分かったとか、忘れたころに答えの方から近づいてくるということもあるので。

さて話がずれました。行田にいった理由、もう1つこれかもしれないと思ったことがあります。
古代のこの地と水のつながりを知るということです。
行田市内の地蔵塚古墳の石室には船に乗って長い櫂で船を漕ぐ人が刻まれています。


どうやら古墳が築造されたころ、古墳群とその周辺は河川との深いかかわりがあり、古墳に使われた石やその他の物資、文化が行き交う河川の要衝だったようなのです。
博物館の展示で「埼玉(さきたま)の津」という言葉を初めて知りました。万葉集に
「埼玉の津に居る舟の風をいたみ 網は絶ゆとも言な絶えそねつ」
という歌があるそうです。
歌の意味は、「埼玉の津に繋いである船のもやい綱が、風が強くて切れてしまっても、ふたりの間の言葉は絶えないでほしい。」というものです。
津というのは港のことで、この歌からは当時埼玉の津という港があったこと、船が繋ぎ止められていたことがうかがえると説明がありました。万葉集が作られたのは埼玉古墳群が築造されてから100年程後の時代になりますが、その時も水との深い関りがあった土地だったと言えます。

古代この地は水との関りが深い土地でした。現代の私の想像以上に。
1200年以上前に誰かが誰かを想って歌を詠んだころ、古代蓮は今と変わらず人々の目を楽しませていたのでしょうか。
そして人々は水をどんな風にとらえていたのでしょうか。
いつかパズルの欠片が揃う時、水と人の想いを知る時がくるのではと思っています。

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