パワースポット 琵琶湖 竹生島④ 浅井比咩命 新しい旅⑲

 さて話は変わりますが、都久夫須麻神社のご祭神であるという浅井比咩命とはどういった存在なのでしょう。
 記紀には記されていない女神様で、私は竹生島に行くことになるまで浅井比咩命様を知りませんでした。

近江国風土記(逸文)に記される竹生島の伝承を簡単に約してみました。

 夷服の岳の神である多々美比古命(たたみひこのみこと)と姪(妹と言う説も)の浅井の岡にいる浅井比咩命が山の高さを競いました。
すると浅井の岡が一夜にして高さを増し、これに怒った夷服の岳の神は刀剣を抜いて浅井比咩命を斬ってしまいます。
その時、浅井比咩命の頭が琵琶湖に落ちて島になりました。竹生島と言うのはその頭でしょうか。

つまり風土記の中では竹生島自体が浅井比咩命であるということになります。

 都久夫須麻神社の御由緒は滋賀県神社庁のサイトによると「総国風土記に雄略天皇3年(459年)に浅井姫命を祀る小祠が出来たのが始まりであるとしている。」とあります。
 一方、宝厳寺は寺伝によると神亀元年(724年)聖武天皇の勅願により行基が開基、大弁財天を祀ったのが起源とされています。
 もう1つ、承平元年(931年)成立の竹生島縁起では行基の来島は天平10年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりとされているようです。

 都久夫須麻神社は延喜式神名帳にある通り、浅井姫命を祭神とする近江国浅井郡の神社であったが、祭神である浅井姫命は浅井氏の氏神とも言われ、湖水を支配する水の神ともいわれることから、平安時代末期頃にはこの神は、仏教の水の神である弁才天(元来はインド起源の河神)と同一視されるようになっていくと、ついには弁才天と同一とされる市杵島比売命も祀るようになり、神仏習合が進んで都久夫須麻神社は宝厳寺と一体化していった。

Wikipedia宝厳寺のページより抜粋

 神仏神仏習合が進むにつれ都久夫須麻神社の存在は希薄になっていったようです。
 はっきりした時期は分かりませんが平安時代末期には弁財天信仰が盛んになり、竹生島は仏教一色となり、浅井比咩命は弁財天と同一視されていったようなのです。
 明治時代の神仏分離まで、現在の都久夫須麻神社の本殿は弁財天社とされ、そこに弁財天像が安置されていました。浅井比咩命を祭る神殿はなかったとも考えられているようです。
 神仏分離令が出されると大津県は、延喜式を根拠に宝厳寺の本堂である弁才天堂を都久夫須麻神社とし、宝厳寺は廃寺するよう命令しますが宝厳寺側は弁財天は仏教の仏であると抵抗します。
 最終的に宝厳寺は廃寺を逃れ、弁財天は寺側へ、それまでの宝厳寺本堂を都久夫須麻神社とし分離されます。
 この時、都久夫須麻神社はご神体がなく宝厳寺の宝物の中から2品を選び神体として安置したと記録があります。

こちらの資料を参照させて頂きました。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_tikubusima.htm

 浅井比咩命は湖水を支配する水の神であると同時に風土記に記されているように浅井の丘、山の神の一面も見せます。
 聖武天皇の勅願で行基が宝厳寺を開基してから浅井比咩命への信仰が急速に弁財天への信仰へ代わっていきました。竹生島そのものが浅井比咩命の頭であるにもかかわらず、一説には浅井比咩命の名前は忘れられていたとも言われています。
 弁天様に置き換えられた女神の名前がちらつきますが検証が不十分ですし、安易に結び付けられません。

私が今回竹生島に来たのはミッションです。水が鍵となっています。
これは今回のミッションおいてですが、水=弁天様=瀬織津姫と感じています。
神社、仏閣にまつられている弁天様はあくまで弁天様なのです。ですがつながりを感じています。
この旅のミッションは京都の下鴨神社へ続きます。

下鴨神社に行く前に、竹生島への旅をされたくなった方へ旅のポイントをまとめます。

パワースポット 琵琶湖 竹生島⑤ 新しい旅⑳へ続く

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